先人たちが残してきたさまざまなアートには、調和と共生の象徴でもある縄文的感性を覚醒させる手がかりがあるようです。そこで世界的にも突出した浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽三十六景」を題材に、日本人の精神性を縄文に遡って探究していた岡本太郎の芸術論を交えてご紹介いたします。
吉川さん:『富嶽三十六景』の中で世界的に最も有名なのは三役の一つである『神奈川沖浪裏』ではないでしょうか。この絵は今から約150年前の1870年代から1900年頃にかけてのパリを中心とするヨーロッパ各都市で起こった東洋の日本文化を熱愛・偏愛するムーブメント「ジャポニスム」を象徴する一枚でもありました。
たとえば西洋の印象派を代表するクロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌといった画家の作風に多大なる影響を与え、音楽家クロード・ドビュッシーが代表作交響詩「海(ラ・メール)」の楽譜表紙に掲載する等が挙げられます。
また最近のニュースによると『神奈川沖浪裏』は本年3月21日開催のイギリス競売大手クリスティーズのニューヨークオークションにて約3億6200万円で落札されたことが大々的に報道されました。
そもそも浮世絵は江戸時代の庶民の娯楽品として歌舞伎役者のブロマイドをはじめ旅行パンフレットや遊里の美女たち・全国各地の名所旧跡の風景や風物詩等を題材とした非常に安価で買えて気楽に捨てられるような存在でありました。
海外のヨーロッパへは主に古伊万里等の陶磁器の輸出品に傷がつかないように施す梱包材や緩衝材として扱われる程度のものだったのです。
美術品の価値というのは時代の変化と共に普通の感覚や常識からはかけ離れたものであって、その不可思議さにはつくづくと感心させられます。
さて当絵の内容については、勢いのある巨大な波が房総からの鮮魚を運ぶ三艘の押送船に襲いかかり、その波間の奥には富士山が望まれるという絶景が描かれています。
北斎は主題の大波を「ベロ藍」の濃淡と白のみで表し釣爪のごとき波頭を前面にもたせることによって津波のような恐ろしくも美しい姿に仕上げています。
ちなみにベロ藍とは当時プロシア(現ドイツ)のベルリンで偶然発見された化学合成顔料(ベルリンの藍を略してベロ藍と呼ばれます)です。
現在では「プルシャンブル―」という色名で知られていますが、江戸後期には舶来品として大いに持てはやされました。
描写されているのは、大波にもてあそばれた船の漕ぎ手たちが櫓を引き上げて両舷に身を乗り出し転覆しないように懸命にバランスを取り合っている瞬間です。
ここに漕手たち(=人の営み)と大波(=大いなる自然)との激しい相克が展開され(➡第一の対極=瞬間=爆発)、その相克を悠然と見守る富士(=神)の存在感が浮き彫りにされている➡第二の対極=瞬間=爆発)かのようなイメージを先ずは持たれるのではないでしょうか。
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今月の北斎 「神奈川沖浪裏」(富嶽三十六景)
吉川 竜実さんプロフィール
神宮参事・博士(文学)
皇學館大学大学院博士前期課程修了後、平成元(1989)年、伊勢神宮に奉職。
平成2(1990)年、即位礼および大嘗祭後の天皇(現上皇)陛下神宮御親謁の儀、平成5(1993)年第61回式年遷宮、平成25(2013)年第62回式年遷宮、平成31(2019)年、御退位につき天皇(現上皇)陛下神宮御親謁の儀、令和元(2019)年、即位礼及び大嘗祭後の天皇(今上)陛下神宮御親謁の儀に奉仕。平成11(1999)年第1回・平成28(2016)年第3回神宮大宮司学術奨励賞、平成29(2017)年、神道文化賞受賞。
通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。