「縄文意識」とは、己が生業に全力で勤しみ、無我や没自然の境地となって真の自己を解き放ち、あるがままの姿で自由に生き切っていく意識のこと。=0意識(私=0=∞)=ゼロ・ポイント・フィールド。ただしコトの成就や調和は神や仏、自然や宇宙に任せる。

吉川さん:公孫勝という人物は北斎が盟友の戯作者・曲亭(滝沢)馬琴とコンビを組んで挿絵を担当描画して発刊された『新編水滸画伝』において梁山泊に集う好漢108人中、唯一無二の方術使いの道士(兼軍師)であり天間星の生まれ変わりとされる人物です。
水滸伝で公孫勝は柴進救出時における妖術使い・高廉をはじめ田虎軍の国師・喬冽など名だたる妖術使いとの戦いにおいて「龍」や「鳳凰」または黒雲の中から金の鎧をつけた神の戦士を召喚する師匠の羅真人から伝授された必殺奥義「五雷天罡の法」を駆使して梁山泊を勝利へと導くと共に、その窮地をたびたび救う無敵の道士として描かれています。荒井勉氏はこの道士・公孫勝の姿に北斎自身の姿を重ね合わせて次のように論じています。
『怒濤図』の真下に葛飾北斎は、公孫勝の像を置くことを考えた。『水滸伝』に登場してくる人物で、向かってくる敵を一人で退散させた豪傑である。像を彫ったのは、宮大工の亀原和田四郎で、何度も彫りなおし、ようやく葛飾北斎の気に入る像を完成したと伝えられている。
葛飾北斎が公孫勝なる人物像を、なぜ中央に置いたかを考えてみたい。葛飾北斎は四十七歳の時、滝沢馬琴の『新編水滸伝』に公孫勝を描いている。そして七十歳の時に、『百八星誕肖像』で葛飾北斎は、水滸伝の登場人物を再び描いている。この『百八星誕肖像』の絵を滝沢馬琴は見て、次の感想を日記の中に書いている。
「公孫勝・羅真人袈裟かけてをる処などいかが」
つまり、公孫勝に袈裟をかけさせ、聖職者の姿として描いていることに注目している。力を誇る登場人物の中で、公孫勝については別扱いで描いていることを、滝沢馬琴の鋭い眼は見逃さなかった。葛飾北斎にとって公孫勝は、宗教性をも加味していた豪傑であったといえる。 ( 略 )
私はこの公孫勝の像を、葛飾北斎自身の姿と考える。公孫勝というのは、水滸伝に登場する人物である。敵将の発する妖術に対抗し、公孫勝も剣をかざして術をくり出し、敵の軍を破った。開国によって上陸してくるであろう西洋美術に対し、北斎自らが対応しようとする心構えを示したのが、公孫勝の像である。
フェノロサが、葛飾北斎に対して評価した言葉は、「荒野に叫ぶ予言者」であった。公孫勝の像にこそ葛飾北斎は、開国に向かって一人立つ予言者の姿を象徴していたといえる。
(『北斎の隠し絵』「第十章『開国予測図』としての三点」より)
右の公孫勝像の姿に北斎自身の姿を重ね合わせて見られたことについては卓越した見解であり、また開国によって押し寄せる西洋美術に唯一対向する予言者としての側面を北斎に見出されたことは極めて興味のある意見であろうと思われます。
しかしながら今は予言者にまで北斎があたるか否かの問題はさておき、先ずは公孫勝像が北斎自身にあたることを認めた上で、疫病神退散の夏祭りで使用された上町祭屋台と東町祭屋台の天井絵について私なりに次に考察しながら解釈を試みたいと思います。
(次号に続く)

出典:『 百八星誕肖像』(国文学研究資料館所蔵) 国書
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吉川 竜実さんプロフィール
神宮禰宜・博士(文学)
皇學館大学大学院博士前期課程修了後、平成元(1989)年、伊勢神宮に奉職。平成2(1990)年、即位礼および大嘗祭後の天皇(現上皇)陛下神宮御親謁の儀、平成5(1993)年第61回式年遷宮、平成25(2013)年第622回式年遷宮、平成31(2019)年、御退位につき天皇(現上皇)陛下神宮御親謁の儀、令和元(2019)年、即位礼及び大嘗祭後の天皇(今上)陛下神宮御親謁の儀に奉仕。平成11(1999)年第1回・平成28(2016)年第3回神宮大宮司学術奨励賞、平成29(2017)年、神道文化賞受賞。
通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。
知っているようで知らないことが多い「神道」。『神道ことはじめ』は、そのイロハを、吉川竜実さんが、気さくで楽しく慈しみ深いお人柄そのままに、わかりやすく教えてくれます。読むだけで天とつながる軸が通るような、地に足をつけて生きる力と指針を与えてくれる慈愛に満ちた一冊。あらためて、神道が日本人の日常を形作っていることを実感させてくれるでしょう。
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