縄文時代、人々のつくる器や道具には宇宙観を表す装飾や文様が施されていました。その精神性の高さと強さの一貫性を感じさせるのが、宝石類。なかでも硬玉ヒスイと勾玉は、イノチとは何か? を伝えているようです。
吉川さん:縄文文化を代表する威信財としては、誰もが「硬玉ヒスイ」と、その鮮やかな緑色をした「勾玉」をイメージするのではないでしょうか。
硬玉ヒスイは新潟県糸魚川市の長者ケ原遺跡や寺地遺跡から出土しており、両遺跡からはヒスイ製勾玉と共にヒスイ加工工房も発見されています。
栃木県那珂川町の岡平遺跡出土のヒスイ大珠を製品とすると今から7000年前の縄文中期には既に作られており、その後期には世界にも比類のない日本独自の勾玉が創出されています。
この硬玉ヒスイ製勾玉は北海道から沖縄まで日本全国くまなく珍重されました。
この硬玉ヒスイの硬さは6・5から7というダイヤモンド一歩手前の硬度を誇るといいます。
この硬い材質に対して、縄文中期には孔を空ける穿孔技術が開発されています。
この技術が開発される前の穿孔法は、棒状に成形した石錐の先端部をそれよりも柔らかい対象物に直接あてて干渉させ孔を穿っていました。
しかしながらこの穿孔法では高い硬度を誇る硬玉ヒスイには全く歯が立たなかったのでしょう。
そこで縄文の人々は対象物の上に研磨剤として石英の粉末をのせて、その上で鳥の管骨や乾燥した笹や篠竹等の中空状の錐を用いて回転させ、石英の硬さで対象物に孔を穿つという革新的な技術を開発。硬玉ヒスイに穿孔することに成功したのです。
ところで勾玉の形状は一体何を意味しているのでしょうか。これまで説かれてきた主な説は①獣の牙玉②三日月③胎児④玦状耳飾り等ですが、やはりその形状は③胎児を表わしているのではないかと思います。
この胎児説をはじめて本格的に提唱されたのは、解剖学者の三木成夫氏です。
その著『胎児の世界―人類の生命記憶―』で、胎児が母親の胎内で十月十日を過ごす間に「地球47億年の生命の進化の全過程」を身体に刻みこませるように体験していることを紹介され、受胎してから約2ケ月頃(胎芽から胎児へ)の魚類の形をした胎児をたびたび「勾玉」にたとえられて説明されています。
それから硬玉ヒスイ製勾玉は鮮やかな緑色をしているのが特徴ですが、『大宝令』(大宝元年・701年成立)には「三歳以下を緑とせよ」とあり『万葉集』にも「弥騰里児・(4122)」と詠まれ、生まれたばかりの子供が新芽や若葉の如く生命力に溢れていることから幼児のことを「緑子」と称したといいます。
また青森県八戸市の縄文後期の薬師前遺跡出土の土器棺には4コマ漫画のような発芽の様子を描写したと考えられる文様が刻まれています。
このようなことから緑色というのは植物の発芽を意味したものであると考察されます。
硬玉ヒスイの穿孔は成人男性が1時間懸命に取り組んだとしても深さ1㎜にも満たない孔しか穿てないといいますから、非常な困難を伴う作業であったことが窺われます。
にもかかわらず硬玉ヒスイ製勾玉になぜ執拗に穿孔したのでしょうか。
紐を通すための孔であることは確かですが、むしろそれよりも勾玉の形状を胎児に象って、その心臓にあたるところを穿孔することによって新たな生命を吹き込むことに意義があったと思われてならないのです。
『古事記』天地開闢段には、「水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる」と見られ、また『万葉集』巻八(1418)志貴皇子が詠まれた御歌には、「石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(両書傍線筆者付す)とあって、古の人々は「葦牙」や「わらび」等の植物の芽が吹き出す瞬間に溌剌とした生命エネルギー(=産霊の力)を感得していたに違いないと思います。
従って硬玉ヒスイ製勾玉とは〝ムスビの力溢れる新芽のような胎児を象った玉(タマも古語でイノチの意を表す)〞といえるのではないでしょうか。
吉川 竜実さんプロフィール
伊勢神宮禰宜・神宮徴古館・農業館館長、式年遷宮記念せんぐう館館長、教学課主任研究員。2016年G7伊勢サミットにおいて各国首相の伊勢神宮内宮の御垣内特別参拝を誘導。通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。